-黒田福美エッセイ- 美食浪漫

第23回 連載 【美食浪漫】 シッケ 愛情あふれるオンマの味!

意を決して取り組んだソウルオリンピック報道

ソウルオリンピックが開催されたのは1988年のこと。今から22年も昔の話になるかと思うと、感慨深いものがあります。というのも、私はそのとき、テレビの報道系番組でオリンピックに向けて変化するソウルの街や人々を定期リポートするコーナーを担当させていただくことになり、全人生を賭けて取り組んでいたのです。

今でこそ韓国は韓流、グルメ、美容、ショッピングなど日本の女性たちの関心の的ですが、その当時は女性が韓国について語ることはほとんどない時代でした。報道で韓国に触れられることがあっても、画面に登場するのは難しい顔をした大学教授や評論家の先生方ばかり。
そんななかで、女優でありながら少々の韓国語を話し、韓国レポート番組をいくつか担当し始めた私の存在は「使い勝手」がよかったのかもしれません。当時、私はやっと女優としての仕事が軌道に乗り始めたばかりでしたが、この機を逃しては生涯後悔すると思い、俳優業の安定を捨てても韓国報道に関わるという道を選んだのです。

報道番組が始まる前に私はまず、「下宿を借りていただきたい」とプロデューサーにお願いしました。できるだけ一般の人たちとの生活に溶け込みながら、ソウルと人々の暮らしを体感したい、そのなかから取材テーマを模索していきたい、と思ったからです。
あの頃、下宿は、学生同士の口コミや大学近くの電信柱の貼り紙などで探し出すのが普通でした。ですから、下宿探しにはずいぶんと苦労しましたが、ようやく梨花女子大前の市場のなかに部屋を間貸しする大家さんを見つけ、私の「基地」にすることに決めたのです。
実際の取材はスタッフと一緒の方が都合がよいとの要請で、ホテルに泊まって行動をともにしましたが、取材が終わるとそのまま下宿へ帰り、しばらく過ごして東京へ帰るという生活をしていました。実際には、ひと月のうち、下宿で生活できた時間は10日ほどもなかったかもしれません。長い時間ではありませんでしたが、大家さん一家や下宿人仲間、近隣の人たちとの触れ合いのなかで感じたことは、今も大きな財産であり、よき思い出です。また、そこでの生活がヒントになって生まれた番組もいくつかありました。

ソウルの下宿先で喉を潤してくれたシッケ

下宿生活をした人なら誰もが感じることですが、本当の家族のように迎え入れてくれるその家のお母さんに深い信頼と情愛を持つものです。まして私などはお母さんのする家事や料理、話の一つひとつに韓国的なものを見いだし、興味を深くしました。
当時、お母さんが家族や下宿人のためにいつも用意してくれていた飲みものがありました。「シッケ」()です。

美食浪漫 写真 シッケは「麦芽で作った甘酒のようなもの」と説明されますが、アルコール分はまったくなく、作るのにけっこう手間のかかる飲みものです。
麦芽の粉をしばらく水に浸け、麦芽水を取り出します。そこへ炊いたお米を入れて、しばらく温かいところに放置するか、電気釜などで保温して発酵を促します。すると、米の糖分を麦芽が分解し、ほのかに甘みが感じられる白濁した飲みものになるのです。今になってみると、家族や下宿人たちがいつでも好きなだけ飲める量のシッケを準備するのは、どれほど大変だったろうと思います。

ところで、韓国に大量の砂糖が流通するのは、日本の植民地時代以降のこと。日本が砂糖の産地である台湾を統治するようになった頃から、砂糖を使った羊羹(ようかん)やあんこ(韓国語でも「アンコ」)といった甘い菓子類が日本経由でもたらされ、砂糖が韓国でも一般的になるのです。それまでは、韓国のお菓子に使われる甘味料はもっぱら蜂蜜か水飴でした。それらですら一般庶民には贅沢品。麦芽を使ったシッケのようなほのかに甘い飲みものや、イモやカボチャなどの澱粉を麦芽で発酵させた飴類が、庶民にとって甘みが楽しめる飲食物でした。

オンマが育んだ健康と食の安全への意識

韓国人はあんなに辛くて強い味わいのものを食べていながら、実に繊細な味覚を持っています。とくに自然の食材に感じられる甘みに関しては敏感で、飛び抜けたセンサーをもっていると思えてなりません。
生の栗やサツマイモなども「甘い」といって好んで食べます。「葛」の回でも触れたように、私たちには「苦み」ばかりが先にたつような食材のなかにも甘みを感じとります。また豚の皮(腹側の表皮)などの甘みと噛みごたえの妙味は、豚カルビ店などで通人たちの裏メニューとして現在も珍重されています。
こうしたほのかな味わいに対する研ぎ澄まされた感覚が、最近韓国でことさら言われているウェルビーンという安全で健康な食、スローフードに回帰させているのでしょう。

美食浪漫 写真 発酵食品であるシッケは、そもそもお餅を食べるときなどに消化を助ける飲みものでした。食の安全と健康を考えるとき、シッケは韓国を代表するすぐれた飲みものといえます。そしてなによりすばらしいのは、砂糖や甘味料をたくさん使った炭酸飲料などに駆逐されることなく、今も缶入り飲料として不動の地位を占めているということです。私はここに韓国人の食に対する意識の高さを感じます。
それは、家族や下宿人のために毎日シッケをたくさん作ってくれた「韓国の母心」に培われているのでしょう。韓国人の食の安全と健康への意識は、まさに「オンマ」の愛情と真心に支えられているのです。

次回更新は9月1日を予定しております。

筆者プロフィール

黒田 福美 (くろだ ふくみ) 女優・エッセイスト
 東京都出身。 映画・テレビドラマなどで俳優として活躍する一方、芸能界きっての韓国通として知られる。テレビコメンテーターや日韓関連のイベントにも数多く出演、講演活動なども活発におこなっている。韓国観光名誉広報大使、日韓交流おまつり2009InTokyo実行委員も務め、著書に『ソウルマイハート』『ソウルの達人 最新版』(講談社)などがある。韓国地方の魅力を紹介したDVD『Ryu・黒田福美が行く韓国四季の旅』も好評発売中。09年は『ビバリーヒルズチワワ(吹き替え)』(Disney)、『ゼロの焦点』(東宝)に出演。
黒田福美ブログ http://ameblo.jp/kuroda-fukumi/
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