調査地珍島の村には、独立運動に身を投じた人もいました。彼は伊藤博文の暗殺を目指し、決死の覚悟を密かに懐刀に刻み込んで、上京して機を狙っていたそうです。しかし、安重根に先を越されたことを知り、目標を失って失意の身で故郷に帰った彼は、地元で農村教育に余生を捧げたといいます。
珍道郡の李東鎮郡守も、幼い時に邑に転出したとはいえ、元はこの村の出身者です。一昨年珍島を訪ねると、ちょうど郡守の選挙戦真最中で、村で生まれた自分がなぜソウル大学まで卒業し、公職を歴任して、今こうして立候補するに至ったのかを話してくれました。
彼の父親の三人兄弟の一人が、「日本に行って一旗挙げたい」と言い張るのを両親はじめ皆で猛反対したところ、意を決した彼はある日、親の金を盗んで逃亡したそうです。とんでもない親不幸者だと村中が大騒ぎになりましたが、しばらくするとまだ十代の彼が日本から次々と送金してくるようになりました。そのおかげで家族は次々と田んぼを買い足し、村きっての富者となって邑内にも家を持つようになったそうです。そして、兄弟はもとより自分たち甥の代まで皆がソウルで教育を受け、大学を出て要職に就くことができたのだといいます。彼の言葉によれば、「親不幸の極みとまで言われたこの年端もいかない青年の意志が、我が一族に隆盛の道を開くことになった」のでした。
日本人の教師について思い出を熱く語る人にも何度か会いました。多感な子供たちにとって先生はそれだけ身近な存在だったのです。その先生を招待したいので探し出して欲しいと頼まれ、四国出身らしいという記憶を手がかりに新聞社に尋ねたところ、すぐ消息が分かりました。村の子供たちは、「厳しかったけれど本当に良い先生だった」と言いますが、本人は、厳しくしすぎたことが日本に引き揚げてからもずっと気にかかっていたといいます。
私の自宅隣の老夫婦も、大学を卒業して新婚早々、二人で志願して全羅南道の田舎の学校に赴任したそうです。大学では地理学が専攻だったようで、私が韓国農村の話をすると、自分も本当はそういう研究をしたかったといいます。私に勧められてその学校を訪ねると、列車の到着時間を知らせていないのに、宝城のホームには教え子たちが迎えに出ていたそうです。教育者たちの志がこうして当時の子供たちの心に刻まれているのは、不幸中の幸いというべきでしょう。
珍島でも終戦の前後に日本から嫁いできた女性に何人か出会いました。いずれも日本から引き上げてくる青年の後を追って来た女性たちでした。苦労も多かったに違いありませんが、皆子供にも恵まれてゆったり余生を送っているのは幸いです。
青森から木浦までやってきた女性は、相手の青年に婚約者がいることを知らされましたが、日本に帰ることもできなかったようです。紹介されたり身を売られるように転々として珍島まできたそうです。そして子供のいない夫婦の家庭に置いてもらって、その家系を継ぐための子供をもうけ、その正妻が80歳で亡くなるまで、どんな辛い仕事もしてきたといいます。子供は二人とも学校の教師になり、私が訪ねた時にはようやく夫婦水入らずで余生を送りはじめたところでした。
友人の父は、日本から引き揚げてきた時、愛し合っていた女性が後を追ってきたのを、説得して二人で泣きながら別れたそうです。そのことは、老後になってはじめて父から打ち明けられ、その女性と最後に分かれたソウルの駅まで彼を連れてゆき、父の秘めた思い出を語ったといいます。
こうした別れについてはあまり語られたことがないようですが、植民地時代はこうして家族にも深い影を落としているのを、あらためて実感しました。