韓藍異聞

2012年09月24日 金容沃さん

1971年に初めて韓国を訪れてから40年以上が過ぎてしまいました。その間に何もかも大きく変わってしまったようです。
露天掘りで進められた地下鉄工事、車の排気ガス、疲労困憊だったバスの車掌さん、靴磨きの少年も、ガム売りの子供も、皆すっかり姿を消してしまったし、ソウルの街中でいくらでも見られた韓屋家もタルトンネ(不法居住地区)も、次々と姿を消していきました。仁寺洞はすっかり造り替えられ、若者と観光の町となっています。景福宮の塀に沿って三清洞まで洒落たカフェやブティックが並び、多少おもかげを残していた北村も、今は新たな韓屋チプが建てられリフォームが進んでいます。畑が広がっていた江南の変貌ぶりは本当に形容しがたいほどです。

都会も農村もいつも難問だらけで、人々の不満も高かったはずですが、その中で耐え忍び、いつも前向きに生きていた人々の逞しさにはいつも驚かされます。

今も毎年一度は珍島を訪れることにしています。昔と違って道路もバスも快適ですし、本土との橋が架かってからは、いつの間にか島のなかを走っていたりするほどです。昔は、邑内でも藁葺き屋根が目についたし、すぐ周りは田んぼでしたが、今では訪れる度に新しい建物が増えています。
邑内では何と言っても朴柱彦さんと会うのが楽しみです。最初に訪れた72年以来の友人です。天候さえ良ければ一度は海辺で釣りも楽しみたい。月光のもとでサムギョプサルを焼き、奥さんの伽耶琴に耳を傾けながら杯を交わすのは、おそらく誰も真似できない最高の贅沢でしょう。

村では真っ先にヒョンニムを訪ねます。私が居候していた離れの小部屋は、縁側はとうに朽ちはて扉も釘で打ちつけられています。ソウル大学の人類学科の一行を案内したときには、人類学者の生活に学生たちも随分関心を示していました。それもそうです、40年も経っているのですから。
部屋の壁には、私が村に滞在する度にその記録を記していたはずです。彼の案内で村の様子をさっと見て回るのですが、過疎化と老齢化が進んだため人影もめっきり少なくなりました。私にまとわりついていた子供たちの姿も、鶏や子豚たちももう歩き回っていません。村は昔よりさらにのどかになったようです。

農村の変貌ぶりは信じられないほどです。電気もバスも通わなかった頃、月の満ち欠けとともに暮らしていた人々、砂糖が貴重だったため、子供たちにお土産に買っていった飴を年寄りが食べてしまったこと、拡声器から流れるセマウル運動の歌、子供の泣き声、母親のしかりつける声、朝からマッコリ浸しの人、婚礼の晩にケンガリとチャンゴに興じる人たち、満月の下で朗々と歌うカンガンスルレー、やがて輪になって地面を踏む力強いゴムシンの響き、ランプのもとで花札に歓声をあげる人影、歌謡曲に合わせて田植えする娘たち、どこの家庭にもあれほど沢山あった甕器、夕暮れ山から帰ってくる牛の鈴音、山に向かう葬列の挽歌など、すべてが過去のものとなりました。

村の集会場には、その当時私が撮った写真がぐるりと飾ってあります。村の記録であると同時に、私の記念でもありますが、その写真もずいぶん色あせてしまいました。天然記念物の老樹や五重石塔を訪ねて来た人が、聞きつけて時折立ち寄って行くそうです。

フィ―ルドノートを読み返してみると、当時の様子がよみがえってきます。なかには、自分でもすっかり忘れていたことが書いてあったりしますが、村の長老たちは皆すでに亡く、今となっては確かめることもできません。村での生活がけっして快適ばかりでなかったことにも気付きますが、毎日毎日が刺激に富むなかで、いつも自分なりに村の生活を楽しんでいたのも確かです。
私を支えてくれた方々の恩にどのように報いるか、それが私にとって最大の課題なのです。

最終回
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プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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