私が住み込んだ村は、まだほとんど藁ぶき屋根で、山裾に群がる茸の群れのような村でした。しかしよく見ると、瓦ぶきの古い屋敷やセマウル運動で持ち込まれたスレート屋根も混じり、激動の時代を迎えた韓国的なアンバランスも気になり始めました。
当時は、町から一歩出ると農村部には電気もない暗闇のような世界が広がっていました。村の生活は月の満ち欠けとともに巡っていたようです。月が満ちるとともに人々の気持ちも浮き浮きとし、満月の晩には誰もがじっとしていられないようでした。広場でおしゃべりに興じる人、石垣越しに縁側の娘たちに声をかけて笑わせる人、ラジオの放送劇を聞きながら散歩する人、広場では大勢の子どもが縄跳びをしたりしています。そんな日は豚も寝付けないらしくがさがさしているし、鼠まで積み重ねられた焚き木の山や天井裏を走り回ります。しかし月が欠け始めると皆の気持ちも鎮まりゆき、やがて新月の晩には歩く人影も少なく、真っ暗な中を煙草の火だけがゆらゆらと見えます。皆早く寝床に着くようで、私も遠慮してランプの火を小さくしました。そんな深夜、遠くの松風の音にまぎれて銅鑼の音がかすかに聞こえてくれば、それは誰かが村の三叉路で鬼神を逐いやる儀礼をしているのでした。
新月のしかも星明かりもない夜は、道も分からないような漆黒の闇で、田んぼに落ちないように立ち止まっては、道の両側の白いコスモスをかすかな手掛かりとして歩いたものです。そんな晩に夜道で人と出会うのは本当に不安でした。村の人なら互いに分かっても、よその村の人だったら挨拶のしようがないのです。向こうから人の声が近づいてきた時には、やむをえず茂みに身を隠してやり過ごしたこともあります。「怪しい人に会ったら申告せよ」という防諜標語が至るところに貼られていた時代です。「こんな人が居れば申告せよ」とあるのを見ると、言葉使いが少しおかしい人、物の値段がよく分からない人、山から下りてきた見知らぬ人とか、どれもが私に該当しそうでした。
村に入って1か月ほど過ぎた1972年10月のある日、たまたまラジオにスイッチを入れると福岡放送のニュース解説の時間でした。戒厳令がどうのと言っています。それも韓国のことです。途中から聞いたため詳しく分からないまま、たまたま町から帰ってきた人に伝えると、彼は衝撃を受けたようにしばらく考えた末、何人かと相談した後再びあたふたと町に向かいました。村の人はほとんど誰も知らなかったようです。数日後、郡庁の公報室からジープが来て、村の掲示板に大統領の声明文を貼って行きました。それでも村の人は誰も気に掛けないようでした。更に2、3日経つと、隣の村で映画があるからと誘われました。風で揺らぐシーツのような幕にほのかな影像、寒さに震えながら発電機の音にも悩まされ、最後まで何だかよく分からない映画でした。映画の合間に3つの村の里長が額を寄せるようにして、地面に広げた大統領の談話文を読み上げていました。それがいわゆる「10月維新」でした。
村でもセマウル運動が本格化していた頃です。村にはセマウル旗がなびき、村の拡声器から朴大統領作詞作曲の「セマウル歌」が流れ、歌詞にあるとおり私も早起きを促されました。ラジオでは一般募集によるセマウル歌も紹介され「……嫁をとるならセマウル・アガシ……」という歌までありました。子供たちは大統領を讃える数え歌「イルハシヌン大統領、イナラエ指導者、サミル精神……」と歌っていました。
その頃は、村中が悲喜こもごも活気であふれ賑わっていましたが、そのわずか数年後には早くも過疎化が始まり、村は活力を失い始めるのでした。