韓藍異聞

2011年11月29日 村に住み込む

私の研究目的と計画をほぼ完全に理解していた友人に助けられ、私が調査地として選んだ村は、珍島の南側に位置する上萬という村でした。邑内からはバスで40分ぐらい乗って、そこから徒歩で30分ぐらいの道のりで、紹介された村出身の鍼灸の先生が同行してくれることになりました。村に向かう途中で定期市の雑踏に巻き込まれ、人ごみの中で村から来ていた女性たちの一行と出会いました。耕運機の荷台に便乗して、でこぼこ道に揺られながら、まだ見ぬ村に向かいました。山裾に沿うようにして、右手には田んぼの向こうに山を眺めながら、フィ―ルドに向かう人類学の喜びをひしひしと感じました。

村では、戦後初めて訪れる日本の若者を受け入れるべきか相談のため、洞長をはじめ村の長老や主だった人が集まっていました。案内役となった鍼の先生が、私の要望を代弁してくれましたが、村の人たちの最大の心配は食生活の問題だといいます。貧しい農村で、辛くて単調な食事に日本の若者が耐えられるかどうか心配だ、病気にでもなったら責任が重いともいいます。
すると一人が、いきなり自信ありげに「この男はだめだ」と口を切りました。彼が邑内で食事をしていたとき、この若者が店に入って来て「あまり辛くないように」と注文したというのです。その顔を見て私も思い出しました。町に滞在していたとき、毎日続く旅館の辛い食事から解放されようと、一度だけ昼食を近くの食堂でとったことがあります。そのとき、確かに奥の方に日焼けした人がいて、こちらをじろじろ見ていました。「しまった」と思いましたがどうにもなりません。そこに追い打ちをかけるように、頭に髷(サントゥ―)を結った洞長が、「最近日本では、アメリカの影響で若者の間にヒッピーが流行っていて、風紀が乱れているそうだ。村の若者に悪い影響を及ぼさなければ良いが」などといいます。鍼の先生がそんなことはないとかばってくれましたが、とにかく食事をどうするのか、誰が面倒を見るのかが課題のようでした。
周りも暗くなってきて全体に否定的な空気が漂っていたそのとき、突然奥の扉が開き、厨房から「食事をなさい(シクサハシオ!)」という奥さんの声とともに、食膳が運び込まれました。そして、私がキムチを摘まみ美味そうに頬張って食べると、誰かの「ほう、大丈夫だ」という声とともに、一転して私は合格となりました。男たちの意見が並行線のまま埒が明かないとき、主婦たちの発する「食事ハシオ!」という声に救われたことは、これ以外にもあります。

後で分かったことですが、食事などより私と在日との関係、とりわけ思想面で警察からマークされるのではないか不安を掻き立てたようです。しかし村の人たちは、そうした不安を口にすることは一切なく、日本人を受け入れたことで里長が定期的に警察に報告の義務を負っていたらしいことも、10年以上経ってようやく分かってきたのでした。その一方で、研究に対しては無条件で理解を示してくれたのは、さすが文人の知的伝統を尊んできた国柄に加えて、この村が「文献坊」の誉れ高く、漢学の教育に力を注ぐことで知られた村だったからと思われます。

因みに、頭にサントゥ―を結っていた洞長は、漢学の教養を身につけるとともに、面事務所に勤めた経歴もあって、農村振興運動当時も村のために貢献した方でした。私が訪れた1972年当時は、更定儒道という民族宗教に身を投じていました。復古的な思想にかたまっているのでは思っていたところ、ある日私は「今日の日本における政治哲学は一口でいえばどういうものか」と尋ねられ、答えに窮したことがあります。彼は毎日VOA放送に耳を傾け、アメリカや日本の動向にも関心を払っていたのです。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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