韓藍異聞

2011年11月01日 朴柱彦さんとの出会い(2)

彼はもともとの関心に加えて、会うたびに私からも人類学の集中講義を受けているようなものだった。やがて地元新聞の記者としてばかりでなく、地域の歴史や民俗や社会について調査も行い、外部から訪れる研究者から報告書の執筆を依頼されたり、共同執筆するようになり、今では類い稀な現地研究者として知られるようになった。私も日韓の共同研究を組織した際、大学の研究者ばかりでなく彼を貴重な現地研究者としてメンバーに加えたことも何度かあり、日本の離島や漁村を訪ねる機会を設けたりした。

戦後の日韓において、こんな風にして出会った二人が40年間も深い絆で結ばれ、今も交友を続けているのは案外少ないのでなないかと思う。人類学者と現地の人とのこうした交友はいくらでもあるものと思っていたが、必ずしもそうではないらしい。日本でもあまり耳にしない。同じフィールドをそれだく長期にわたって研究し続ける例が少ないのかもしれない。
先日、日本研究で著名なイギリスの人類学者ジョイ・ヘンドリー教授(オックスフォード・ブルックス大学)が訪ねて来て、それが話題になった。教授は研究者と現地の人との連帯をもっと深めることによって、研究の在り方と質の転換を目指すことを提唱しており、彼女によれば私たち二人のような例は、実は世界的に見ても案外稀なようだ。

実は、私たち二人の交友はすでに90年代に少し話題となっていたらしい。或る日、私の研究室にソウルの放送局KBSから突然電話がかかってきた。ソウルと珍島と私の研究室をつないで三角中継が企画された。その放送を、たまたま別の友人の奥さんが台所仕事をしながら聞いていて、嬉しさのあまり電話をかけてきた。
その友人と、最初に出会ったのは、私たちがハーバード大学に滞在していた1977年のことで、彼は韓国の経済企画院から研修に派遣されていた。その後、彼が東京の大使館に勤務するようになってからは、今日まで家族ぐるみで付き合いを深めている。やがて彼は私のフィールドの珍島にも関心を払ってくれるようになり、夫妻で珍島に朴柱彦さんを訪ねてくれたり、さらには珍島のために、離島の水道施設や遺蹟(南桃石城)の補修事業や珍島犬の保存研究施設の設立などに際しても、さまざまな配慮をいただくことになった。現在は国会議員として多忙であるが、先日も私が彼の地元安東の大学に講演で招かれた際にはわざわざ訪ねて来てくれた。

日本人のすべてではなくとも、何人かに一人でも、隣の国に親しい友人を一人持っていれば何があってもその友人の立場に立ってものを考えられるようになり、そうなれば国際関係は自ずからうまくゆくに違いない。それが実現されれば、国際関係論などという学問も必要なくなるかもしれない。また、そうした友人を通した市民交流時代には、外交に専門性などあり得なくなるかもしれないのだ。

自分だけでなく周囲の同僚を見渡しても、人類学はまさに身を以って異文化交流を実践してきたと言ってよい。最初は誰もが、研究のための現地生活であり、研究のための交流ぐらいに考えていたに違いない。やがて、現代のこの流動的な社会においては、人々の移動や交流も社会研究の重要な対象と見なされるようになった。そして遅ればせながら、もともと我々の研究も交流そのものであったし、ただ少し特殊な交流だったにすぎないことに気づく。我々の研究も何らかの点でそうした市民交流に資するものでなければならないということも、ごく当然のことなのだ。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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