珍島の邑内

2011年10月03日 朴柱彦さんとの出会い(1)

李杜鉉先生の一行に加えてもらって珍島を訪れた時に、地元新聞の記者が取材のため旅館に現れた。私も日本における文化財の保存の在り方について尋ねられたので、記憶に残っていた。その記者が、或る日旅館の主人に会うと、「日本にも李(イ)氏がいるようだ、今イ―トサンという客が滞在している」という。彼ははっと気がつき、もしや私が再び来たのではと思って、訪ねてきたのである。
私は、早く誰か知り合いをつくって、土地の情報も得たいし、住み込む村を決めなければと気持ちは焦りながらも、ソウル以来の風邪をこじらせ、部屋でじっとしているよりほかなかった。訪ねて来るのは警察の情報課だったり、何かもくろみがあって近寄ってくる人ばかりだったので、そこに現れた彼は私にとって格好の話相手となった。

彼は、珍島のことなら郷土の歴史から地域のあらゆることにとても詳しく、どれも面白い話ばかりなので、私の風邪が快方に向かうとともに、彼の話を聞くのが日課となった。彼の話は、決して断片的でもなく一面的でもなく、さまざまな状況に気を配りながら、しかも人間味あふれる話ばかりであった。異邦人にとっては俄かに信じられないような話でも、私が念のため尋ねれば尋ねるほど、説明は微に入り細にわたり、ますます地域社会の奥の深さと現実の重みが伝わってくるのだった。
やがて私は、かつて柳田國男が遠野の佐々木喜善に出会ったときのように、普通では考えられないような充実した時間を過ごしていた。彼もまた、日本の同年代の若者がわざわざやって来て、これから始めようとしている人類学の現地調査なるものに特別な関心を抱いていたことは確かである。 それからは、毎晩1時か2時、時には夜が白むまで話し込んでゆくし、また邑内を案内してさまざまな人を紹介してくれた。私は期せずして、調査地の歴史、地里、文化、社会全般にわたって濃密なガイダンスを受けていた。彼もまた日本についても関心を払い、私も何かと尋ねられるたびに、いかにリベラルかつ正確に答えるかの難しさを悟り、考えさせられることも多かった。

彼の素性もしだいに分かってきた。彼の生家は、珍島の邑を見下ろす一番高い所に位置する北上里にあり、その村の大半を占める慶州朴氏の宗家だ。彼は幼いころから故郷を眺め渡しながら、この島に対して誰よりも深い関心と愛着を持ってきたようである。 宗家の長男ということもあって、子どもの時から祖先の祭祀などの際には親や年寄りに囲まれ、門中や珍島の歴史について聞かされて育ったという。文学青年として方言を駆使した随筆でも、異色の存在であることも後で分かってきた。
ふり返って見ると、彼はおそらく最初から人類学という学問の目標や方法について、ほぼ完全に理解していたと言ってもよい。そして、ソウルの大学の人類学者よりも人類学的なセンスが豊かなのではないかとさえ思えた。

農村に住み込んだ後も、私が邑内に出かけると、私を見かけた人は私が尋ねなくとも「柱彦は今どこに居る」と知らせるようになり、すると間もなく私の前に彼が現れるのだ。日本から来た若者がいつも彼と一緒に居ることは邑内でも広く知られるようになり、私たちについて地元の人たちは「二人はうまく出会った()」と評した。
我々の現地調査というものは、たった一人でも自分の研究について完全に理解してくれる人を現地で得られるなら成功は間違いない。その彼に相談すれば、どんなことでもきわめて適切な判断を下して解決してくれると言っても過言ではない。私の現地調査とは、実はこうした朴柱彦さんの存在無くしては語れない。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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