珍島の邑内

2011年10月03日 珍島の邑内

ソウルの生活を切り上げ、9月の初め、スーツケース一つの身で私は珍島に向かった。 大田から湖南線に分かれると鉄道も単線になり、木浦に向かう車両も釜山行きよりみすぼらしく感じられた。木浦の駅からそのまま真っ先に船着き場に向かい、珍島に行く船を見つけてひと安心した。木浦は多島海の島々に渡る巡航船が発着する港となっていて、島に帰る人でいつも溢れている。船着き場の近くには魚市場があるらしく、道端にも屋台が並んでいる。

しかし、予定の時刻になっても船の出る気配がしない。乗組員らしき人に何時に出るのか尋ねても、時計を見ながら「まだもう少しかかる」という曖昧なことしか言わない。乗り遅れたら大変だし、いつ出るか分からない船で待つのも退屈だ。見ていると一度乗った乗客も船から降りて、人ごみの中に消えてゆくではないか。乗り遅れないように、船が見えるくらいのところで辺りを見物しながら時間をつぶすことにした。
しばらくするとまるで申し合わせたように、皆が再び上船し始めている。さっき船を降りた人はもう一盃機嫌になっている。そしてまるで定刻のごとく船は木浦の港を出た。後で分かったことだが、潮の具合を見ながら珍島の船着き場の満潮に合わせて船は出るのだ。港と船には、確かに町とは違った不思議な時間が流れているようだ。

実は、前回一緒だった全南大学の池春相教授が、珍島なら誰よりも事情に通じているからと、今回も島を案内してくれることになっていた。有り難い申し出に甘えて、その日程に合わせて私は木浦の船着き場で待ち受けていたのだ。しかし池先生は一向に現れない。電話でようやく確かめると、用事があって一日遅れで発つから珍島の旅館で会おうという。地元の研究者の申し出を無視してはいけないと思ってつい頼ってしまったが、珍島の旅館にも教授はついに現れなかった。しかし、後で紹介するように、実はそれが私にとってむしろ幸いとなった。

珍島の邑城は、昔は城壁で周囲の農村とは隔てられていたが、城壁や城門が取り除かれてからは、農村部と一体となって膨張を続けてきた。広場のよう邑の中央に面したひときわ立派な建物が郡庁かと思ったら、それは警察署であった。邑の中央にはこうした官公署がいくつか目を引き、かつて日本人が経営した商店が並んでいるが、その裏手にはところどころに藁ぶき屋根も混ざっていた。邑の背後には風水上の鎮山である北山が、前方には南山が、町を取り囲むように位置している。本土とは違ってこうした島では夜間通行の規制もなかったため、夜遅くまで人影が絶えず、酒気を帯びた声も聞こえた。

村に住み込むまでの準備のため私が滞在した旅館は、かつて日本人が経営していたもので、2階の畳部屋や裏の庭など、和風の面影が残っていた。昔は遊郭だったという。現在の旅館の主人は、かつて珍島尋常小学校で唯一の地元出身の教師だった方で、解放後は長らく校長を勤めていた。私が、ソウルでひいた風邪をこじらせ咳が止まないのをたいそう気にかけてくれた。

その一方で、旅館に逗留するやその晩から警察の情報課が私の身元調査に現れた。そしてその後も、私が旅館に泊まる度に必ず彼らの来訪を受けた。外国人の身の安全を図るためだから気を悪くしないようにと言いながら、私の政治的な立場や思想を探るような質問をしたものだ。担当が替わってもいつも同じような質問だった。

私は慣らされていたからいいものの、何年かして妻が初めて珍島を尋ねてきたときには、島に滞在した短い貴重な2日間に、邑だけでなく村にまで4、5回もやって来たのだ。髪の長い日本女性が赤軍派のイメージと重なったようだ。挙句の果て、村から邑に戻る際には、黒塗りの警察の車で村まで迎えに来た。このため妻が、そして顔には出さなかったが村の人たちまでも、どれほど気を悪くし情けない思いをしたことか、それ以来妻はめったに珍島まで訪れようとしなかったほどだ。今では考えられないことだが、私にとって珍島で数少ない残念な思い出となった。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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