韓藍異聞

2012年03月19日 日本帰りの人々

私が住み込んだ珍島の村までは、ソウルから湖南線で木浦まで行き、波止場から巡航船で珍島へ、バスで邑に着いて、翌日バスで30分、そこから徒歩で40分かかりました。高速バスを利用して全州まで3時間、直行バスで光州まで3時間、市街バスターミナルから珍島行きに乗って、途中フェリーで島に渡り、30分ぐらいで邑に着くという方法もありました。
これほど辺鄙な農村で、戦後初めて見る日本人ということでしたが、2、3日もすると日本との深いかかわりが随所で目を引きます。邑内には日本家屋もまだたくさん残っていましたが、村にもかつて農村振興運動当時に建てられた瓦屋根の公会堂が残っていました。村の集会場、共同作業場、協同販売店を兼ねていたもので、その一部には昔の道具を使って理髪店がまだ営業していました。

戦後初めての日本からの珍客を迎えて、日本帰りの人も次々に名乗りを上げました。大阪弁を流暢にしゃべる老人は、今も毎日のように大阪の夢を見ると言って、大阪の思い出話が尽きませんでした。また炭鉱の労働募集に応募して北海道まで行った人は、珍島から木浦、釜山から下関に渡り、列車で青森に、青函連絡船で北海道に渡って山の中の炭鉱に着いたそうです。途中で食事の待遇が話と違うので不安になったこと、抗道から出てきた鉱夫のやつれた顔を一目見て驚き、こんな所に居たら死ぬと思って早くも脱走を考えたこと。同僚と二人で雪の中をさすらい、農家で食べ物を分けてもらったり盗んだりして、アイヌの村でかくまってもらったこと、そこの娘の婿になるように勧められたことなど、ドラマさながらでした。
彼はそこから町に出て朝鮮人の飯場で飛行場建設などの仕事をしているとき、樺太行きを誘われて稚内の港まで行ったそうです。珍島からここまで三度も海を渡ってきたので、四度目の海を渡ってしまうともう戻れないという言葉を思い出し、水際で思いとどまったことなど、とうとうと話してくれました。「三井ともあろう大会社があんな非人道的なことをしてはいけない」という一言を今も思い出します。彼は故郷に帰って、「日本では列車がそのまま船に乗り、対岸に着くと再び線路の上を走るのだ」と話したところ、そんなことあるはずがないと言って、誰も取り合ってくれなかったそうです。彼は早速村の男たちを呼び集め、私の証言で「大ほら吹き」の汚名を返上したのでした。

若者の中にも日本と意外な接点を持つ人がおりました。この人の二十代の娘さんも日本に出稼ぎに行ってきたと言います。その当時まずありえないことと思って尋ねると、和歌山でサトウキビ刈りをしたとか。さらに確かめると南大東島だそうで、郵便が和歌山取り次ぎだったようです。私ばかりでなく、日本の地図を見て彼女もキツネに摘まれたように首をかしげていました。夏休みには東京から来た学生たちも島の農家に分宿して、手振り身振りで話をしたり、歌を教えてもらったりしたそうです。復帰前の沖縄のしかもこんな絶海の孤島で、珍島の娘さんたちが私より先に東京の学生たちと出会っていたとは。

私と同い年の若者は、東京経由でカナリー諸島に向かい、漁船に乗っていたと言います。韓国の漁船はその当時まだ待遇が悪くて、船員は毎日ひもじくて辛かったようです。
そんなときは港で日本の漁船に横付けして、その甲板を横切りながら身振り手振りで空腹を訴えたそうで、すると気前よく食べ物を分けてくれたと言います。丘に上がって酒場に行くときも、韓国人というと良い顔をしないので、日本人を名乗ったと言います。売国奴のようなことをしたと言いながらも、ともかく荒くれ者が多い漁師の中で、日本の漁師は紳士的だったとも言います。
異郷での厳しい生活にも拘らず、辛さは忘れられ過去は美化されるのでしょうか、日本との接点を持つ人の中には、好意的に受け入れてくれる人が多かったように思います。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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