韓藍異聞

2011年08月25日 天幕生活

ソウルでの下宿生活は毎日が新鮮な異文化体験の連続で、楽しい思い出ばかりでした。それなのに私が退屈しているとでも思ったのか、夏の或る日、明知大学の金泰俊先生が学生たちとのキャンプ旅行に誘ってくれました。仁川から島に渡って何泊かする予定だといいます。
朝早く下宿を出て、仁川駅前の待ち合わせ場所に向かいました。しかしどこにも学生たちの姿は見えません。うろうろしていると、ようやく一人の学生が私を探しにやって来ました。聞けばまだ誰も来ていないといいます。2時間ぐらい待ったでしょうか、ようやく金先生一行が姿を現しました。すぐにも港に向かうのかと尋ねると、少し休もうと言って近くのタバンに入るのです。学生たちが今いろいろ準備しているのだという。ようやく港に着くと、学生たちが何やら大きな包みのような布のような物をかついできました。それはテント代わりの大きなシ―トでした。船の時間までまだだいぶあると言って、港で再びタバンに誘われました。私は日本では経験したことのない不思議な時間の流れに身を任せるよりほかなかったのです。

港は島に渡る地元の人たちや、夏休みを過ごす人たちであふれていました。タバンから港の様子を眺めていると、長髪の若者に向かって警官が何やら咎めているようです。
巡査は若者を部屋に連れ込んで、バリカンで髪を刈り始めました。周りの人たちはまるで何事もないかのように、見て見ぬふりをしているようでした。船に乗り込み、上甲板の風通しの良い所に座ると、金先生を囲んで輪ができ、私も日本からの客人として紹介されました。そこにあの警官もやって来て私たちの輪に加わりました。彼は日本人が居合わせたことを知ると、「長髪取り締まり」の現場を目撃されたのが気になったのか、不安げに私の意見を求めました。私が「人権蹂躙そのものだ」と言い放つと、周りの人たちも慌てて、ショックを隠せない警官をとりなし慰めたりしていました。私の韓国語が拙かったこともあって、かなりストレートな表現になったようです。金先生はそんな様子を楽しむかのように、にこにこ笑っていました。

私たちが目指した島は、遠浅の海に白い砂浜が広がり、そこに小さな波止場が突き出しているだけでした。船から降りたのも私たちだけでした。砂浜の向こうには松林が広がり、その背後には田んぼや農家もあるそうです。その砂浜に例のいびつなシートを広げ、集めてきた棒を柱にしてテントが完成です。一行は、3人の女子学生を含めて総勢10名ぐらいで、全員がそのテントで3日間過ごすことになりました。学生たちは、農家を訪ねて米や野菜、鶏やワタリ蟹まで手に入れて来て、大きな鍋でメウンタンのようなものを作りました。どんなものでもコチュジャンを入れて大鍋で煮るだけで立派な御馳走に早変わりするのです。キムチはたっぷり持ってきたようです。海を眺めながら星空の下で食べればこれだけで十分なのです。波もなく潮が満ちて来てはまた引いてゆきます。その単調なキャンプ生活で、誰も大声を上げるでもなく、はしゃぐでもなく、夜は歌を歌ったり、先生を囲んで静かに話し合うのでした。学生たちの多くは入営の日が迫っているのか、時間の流れを惜しむかのように、正真正銘の天幕生活を味わっていました。

韓国が目覚ましい経済発展を遂げ、世の中はますますせわしく、人々は大声で主張しあい、国の内外に行動圏を広げてきました。1972年夏のキャンプは、私の思い出の中でもまるで蜃気楼のようです。その名も龍遊島という幻想的なこの島を、もう一度尋ねてみたいと思いながら、地図で探したのですが、最近の地図には見当たりません。実は、この島は隣の島と一緒に埋め立てられ、今では仁川国際空港となっているのでした。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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