韓藍異聞

2011年06月20日 貧富の差

1970年代の韓国では、貧富の差は現在よりもっと大きかったように思います。ソウルでは至るところ岡のような斜面に沿って貧困層の不法居住地区がありました。下宿からさほど遠くない所でも、雨が降るとつるつる滑るような斜面を、天秤棒に吊り下げて水をくみ上げる子供たちの姿を見かけました。その斜面から見下ろすと、すぐ目の前には豪壮な住宅が建っていて、屋上ではサングラスのお嬢さんが平然と日光浴をしていたりするのです。そのあまりのコントラストに驚ろかされました。

私の住んでいた不法住宅街の向かい側、延世大学の正門前では、学生の分際でバスを待つ時間に平然と少年に靴を磨かせていました。当時は学生がまだ一種の特権階級だったのでしょう。ピカピカの靴をさらに磨かせるのです。 そういえば街中では、雨が降るとどこからともなく少年が出てきてビニール張りの傘を売っていました。50ウオンの安ものでしたが骨は竹でよくできていました。雨が上がってからもその傘を持ち歩いている私を見て、「みっともないから捨てなさい」と言われたことが一度ならずありました。1972年といえば、韓国中が経済的にまだ恵まれていませんでしたが、貧富の差とは別に全体に見栄っ張りなところがあったように思います。

その頃は、どの映画館でも映画の合間に必ず文化弘報部制作によるニュース映画が上映されたものです。最初に決まってセマウル運動の目覚ましい様子が紹介され、視察する朴正熙大統領の姿が紹介されました。その中で、全羅南道のセマウル模範部落の様子が映し出されるのを見ると、その村ではこのビニール傘製造に村ぐるみで取り組んでいました。この模範村の製品が、都会ではそんなに粗末に扱われているのかと思うと、複雑な気持ちになりました。

私の下宿屋の主人は、夏の夜は月光の下にテーブルを出して、おしゃべりしながら編み物をしていました。業者から配られた糸で手のひら半分ぐらいの丸いレース状のものを編んでおくと、まとめて回収に来るのです。その手間賃が、驚いたことに何と一つにつき1ウオンでした。奥さんも「あまりに安い」と嘆きながらも、やらないよりましだったのでしょう。それから15年も経って、改革開放期の中国江蘇省の農村を訪ねた時、庭で上半身裸の若者がせっせと竹か籐を編んで小さな籠を作っている場面に出合いました。うず高く積まれた籠は、日本の花屋さん向けの手籠でした。また南京の街中でも、おしゃべりしながら魚網を編んでいる女性たちを見かけました。ソウルの下宿やセマウル運動の頃の韓国を思い出しました。

日本人の目には見るに忍びないような貧富の差でしたが、それを当然のように考えるのは富裕層ばかりでなく貧困層も同じでした。日本とはどこか異なる、何か身分制社会の名残のようなものを感じることさえありました。 しかし韓国では、その一方で人間は本来は誰もが同等の能力を持っているのだという漠然とした考えがあるようでした。「うちの子も頭は優秀なのだが、なかなか運に恵まれない」というようなことを幾度も耳にしたものです。能力に差は無いのだから、本人には責任が無いというのでしょうか。あるいは、運にさえ恵まれれば誰でも成功できると考えるのなら、誰にでも望みがありそうでした。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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