韓藍異聞

2011年05月10日 楽観論と悲観論

1970年代初めの韓国に対して、政治や経済の面ではどちらかといえば悲観的な予測や不安を掻き立てるような論評が多かったと記憶します。確かに韓国はたえず難しい状況に置かれていて、政策の選択肢も限られていたのです。どんな政策を採るにしても、先進国の基準から見ればディレンマだらけのように見えたに違いありません。特に経済面では、韓国の実情をよく知る外国人ほど、悲観的な材料ばかりが目についたようで、厳しい予測に陥りがちでした。
しかし当の韓国人は、どんな問題でも悲観的な意見にはさほど耳を貸さず、いつも楽観的で前向きに考え、次々と難題をクリアしてきたように思います。その点、私の友人たちも含めて、およそ海外の専門家というものは、何かと自分たちの基準で考えてしまいがちで、その基準は先進国の描く理想を前提にしたものでした。自分たちの過去は棚に上げて、相手の難題ばかりを取り上げていたように思います。日本もそうだったように、韓国には韓国の考え方と楽観的な展望があって、それは韓国社会の生活に深く根差すものだったに違いありません。海外の経済学者にはそれが見えにくいのでしょう。

ともかく、その当時のマスコミや専門家が、政治や経済などの表通りばかりを重視し、ソウルの中心部や大学近くで機動隊と対峙するデモ隊ばかりに視線を向けていた頃、デモ隊のコースから少し離れると、日本で想像するのとは大きく異なり、そんな殺伐とした雰囲気は少しも感じられませんでした。いったい、どこでデモしているのか分からないほどでした。

私の目に映ったソウルの街は、農村から出て来てまだ間もない日焼けした顔であふれ、老いも若きも夢と希望に向かって歩むひたむきな姿でした。経済的には貧しくとも、道端の靴磨き少年すらも目が輝いていました。市内を迂回して大学に通うバスの中、人々の生き生きとした姿を一枚一枚写真に撮るように記憶に刻みながら、いつか乞食から大統領まですべての人を収めた写真集を作ろうと考えたりしました。
荷物を呆れるほど積んだリヤカーを押す人や、頭に大きな風呂敷を載せてわき目も振らず行く女性、そして市内でも小川の堤では、手に籠を持って山菜を積んでいる女の子や、岩山の麓を谷に沿って少し行くと、川で洗濯する女性も見かけました。大通りから少し路地に入ると、リヤカーを曳いて鋏を鳴らしながら、飴と引き換えに空き瓶や缶を回収する声がどこからか聞こえてきたものです。鋏の鳴らし方にその人独自のリズムがあるようでした。物売りの声もさまざまで、「ムゥサシオー」という朗々とした声に魅せられ、録音機を持って後ろを歩いたこともあります。歌いながら粉の付いた紐を巧みに操る飴売りにも出会いました。夜遅くなると窓の外を触れ歩く「ジーンパプ」という声は、海苔巻売りの全羅道訛りでした。やがて、通行禁止時間になると辺りは静まり返り、自由に歩ける按摩さんの笛の音が聞こえるだけでした。

憂慮された経済問題が次々と解消され、目覚ましい発展がもはや揺るぎないと思われた頃になって、韓国社会が直面したのが94年のIMF危機でした。自信満々に見えた韓国人も、それまで見られなかったほど謙虚になり、多少悲観的な意見まで耳にするようになりました。そして心なしか日本人に対しても優しさを取り戻したように感じられました。日本でも、すっかり安定し成熟したと思われた韓国経済がなぜ突然破綻したのか、意表を突かれた人も多かったようです。大蔵省などでも、この際もっと幅広くさまざまな専門家の意見を聴こうということになり、人類学者にも初めて声がかかりました。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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