韓藍異聞

2011年04月15日 ソウルでの語学研修

済州島訪問の翌1972年、本格的な現地調査に着手するため、6月からソウルで語学研修と調査の準備に取り掛かることになりました。いつまでも自己流ではなく、きちんとした語学研修を受けることを李杜鉉先生から勧められていたのです。 大学から在外研修の長期出張の許可を得るには、公的機関からの出張要請と財政証明が必要となり、某財団から架空の書類を出してもらい、また長期ビザを得るには受け入れ機関が必要となり、李杜鉉先生にお願いしてソウル大学から客員研究員として招聘状をいただきました。それでも不足な分はソウルで期間延長手続きをすることになりましたが、韓国側も日本に劣らぬお役所仕事で、ソウル大学の学長から再度受け入れ証明と理由書を貰うように言われ、用意してゆくと、国立大学であるにもかかわらず学長の公証印を貰って来るように言われました。

ソウルでは先ず下宿を探すため、李杜鉉先生の研究室に書生のように机を置いていた学生の王翰碵さんが、一日中一緒に歩き回ってくれました。釜山出身で女兄弟の中で育った彼は長身を丸めるようにしてもの静かに話す学生で、韓国で最初に知り合った友人となりました。学生食堂で一緒に昼食をとった時、同世代の彼が持参した弁当が、麦飯にキムチだけだったのは小さなショックでした。顔色が優れないし、食事のたびに紙に包んだ薬を飲むのも気になりました。2カ月後、農村に出かける前に李杜鉉先生の部屋に行くと、彼はもういませんでした。入隊して江原道の山中に配属されたと聞かされました。その前、仁寺洞の古書店で当時すでに稀覯本となっていた孫晋泰著『朝鮮民族文化概論』を見つけたけれど高価なので躊躇していると、彼は目を輝かせて私に問い尋ねていました。数日後、書店を尋ねるとその本はもうありませんでした。普段おっとりしていた彼が入隊前に買って行ったのでした。どう見ても要領が良いとは思えない彼が、厳寒の地で3年間も兵役に就くのは不憫でなりませんでした。その後、彼は除隊してアメリカに留学したと風の便りで知りました。私も農村でのフィールドワークに集中しておりましたが、その後アメリカで在外研修中に助教授に採用され、久しぶりにソウル大学を訪れると彼も人類学科の副教授になっていました。韓国の人類学者が皆そうなのか、あるいは彼が体力をつけようと心掛けたためか、ともかく彼は輔身湯が大好物で、会うたびに必ず私を誘うのです。その彼も来年夏には定年を迎えると聞きます。

韓国語の研修では、ソウル大学の東崇洞キャンパスにあった語学研究所の初級と中級に途中から入れてもらいました。同じクラスには亡くなった朝日新聞の田中明さん、早稲田の大村益夫教授、カトリックの日本人シスター、インド大使館職員の奥さん、宗教団体で奉仕活動を志す日本の若い女性たち、在日韓国人の子弟など多彩でした。その頃の東崇洞キャンパスには京城帝国大学時代の校舎も残っていて、煉瓦造りや木造の建物に銀杏やマロニエの木など、東大それも駒場キャンパスと何処か似た雰囲気が漂っていました。今では大学路として若者の町、芸術の町として大変賑やかになっています。キャンパスを李杜鉉先生と歩いている時、偶然に考古学の金元龍先生にお会いしたり、近くの音楽大学に李恵求先生を尋ねたりしたのも貴重な想い出です。

1カ月足らずでソウル大の研修コースは終わり、その後さらに1カ月間、延世大学の韓国語学堂の夏季コースに通うことになりました。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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