韓藍異聞

2011年04月01日 変貌を遂げた済州島

済州島の農村調査は、何時か機会があればもっと掘り下げて調査を続けようという気持ちがあったようで、今になって当時のノートを見ると、住民台帳や族譜をもとに家族構成や親族、集落の地図など、随分基礎的なことから始めていたことが分かります。また、相互扶助の契について資料を書き写したりしているのを見ると、後に珍島の農村で着手する前から、契についてすでに特別な関心を持っていたようです。
しかし、その後は珍島での本格的な調査に取り組んだり、安東を訪ねたりしたため、済州島を訪れる機会がないまま、あっという間に20年近くが経ってしまいました。家族連れで久しぶりに訪れてみると、その間に韓国経済の発展と観光開発が急速に進んだため、島はあまりにも大きく変貌を遂げていました。

島の人口は3倍近くになっているし、かつて本土出身者は「陸地サラム」などと呼ばれて少数派でしたが、今では人口の過半数を占めるようになっています。済州市も格段に大きくなり、ホテルも建ち並び、海沿いには観光客目当ての食堂が軒を連ね、水槽に魚が泳いでいて客を呼び込む様子はどこも同じです。巨大な空港はいつも観光客でにぎわっています。日本ばかりでなく中国からも直行便が運航し、市内で中国人観光客もたくさん見かけます。海岸は大きく埋め立てられ、海女のおばさんたちが埠頭に風除けを張っていたあの店も、夕涼みの人影も今はありません。

道路も信じられないような幅に拡張され、島内を縦横に走りまわっています。昔は、島の少し山手の村に向かう道は、まるで月面のように石がむき出していて、タクシーも車が傷むといって断わるほどでした。変わっていないのは雨の時だけ水が濁流のように流れる水無し川です。

私たちが調査した吾羅一洞からも農村の面影はすっかり失われ、今では周辺まで宅地が広がっています。隣の蓮洞という農村一帯が、今では新済州市という都会に一変しています。吾羅一洞も、村の中央を山の方面に向かう道は、かつては遠足の小学生がのんびり歩くような道で、車も通らなかったのですが、今では山に向かってまっしぐら大きな舗装道路と化しています。また、これと交差して村の真ん中を六車線もの道路が東西に貫いています。村は四つに分断されてしまって、今では横断するのも命がけです。石垣で囲まれた農家や路地は大半が失われてしまったようで、調査当時に作った地図を片手に歩いて見ないと、さっぱり分からないほどの変わりようです。

済州大学も漢拏山の中腹に移り、今では韓国で最も広くて風光明媚なキャンパスを誇っています。島の樹木も以前とは違うように見えてなりません。南国情緒を演出するためなのか、シュロや蘇鉄が目につくようになり、とりわけホテルの周囲や庭にはかつて島になかったような樹木が植えこまれています。 私もこうした変貌を秘かに予測していたようで、本格的な研究拠点としてはもっとじっくり長期的な調査ができる所を優先したのです。済州島は絶海の孤島だったため生活習俗も本土とは異なり、韓国研究のフィ―ルドとしてふさわしいかどうかも不安でした。その上、韓国最大の観光地となって、今ではソウルなど大都会の人びとの消費地に変貌してしまったのです。日本からも国際的イベントなどで訪れる人も多いようです。その点では、また違った韓国の縮図として研究対象になるかも知れません。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
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