済州島での農村調査は、済州大学の玄容駿先生に全面的に頼ることになり、済州市郊外の吾羅一洞という村を調査することになりました。それは、期間も1か月ほどの短いものでしたし、私の韓国語も未熟だったため手探りのようなものでした。私は張籌根先生を通して済州島の叙事巫歌(ボンプリ)の世界には接していましたが、農村については戦前の書物による基礎知識しか持ち合わせていませんでした。しかし、ともかくこれが戦後日本人による最初の韓国農村調査といえるでしょう。
当時の済州島はまだ観光客も少なく、のんびりした情緒溢れる島でした。市内にもまだ藁ぶき屋根が多く、風が強いこの島らしく、屋根は縄で縛りつけられ、石垣も強風をかわすため隙間を残しています。トイレに豚を飼っている家庭もまだ見られました。夏の夜には、軒下に戸板のようなものを並べて寝ころぶ子供たちもいました。
夕方、港に突き出た波止場を散歩すると、海女のおばさんたちが風除けを張って明かりを灯して並んでいます。私たちを呼び込むと、手早く金盥からサザエや鮑をまな板に取り出し、先生は嬉しそうに小さなグラスに焼酎を注ぎました。そして、夕涼みにやってきた人の中に大学の同僚を見つけると、彼らも合流し盛り上がると歌も出るし踊りだす人もいました。夜景や海を眺めながら、実に気分が良い。
タクシーの運転手も私たちが日本から来たと知ると、大阪のどこに親戚が居るといって振り返りながら運転するのでした。村の入り口近くでは、横浜や東京在住の青年会が、故郷のため学校にピアノを寄付したとか、水道敷設のため資金を提供したことを記した記念碑を見かけました。島の人たちの異郷の地で故郷を想う気持ちを感じました。また、葬列の一行に出あうと、喪主は昨日東京の日暮里から駆けつけたばかりとのことでした。どれも日本との近さを感じさせるものばかりでした。しかしその一方で、村で族譜を頼りに親族の動向を追ってみると、4.3事件がいかに悲惨であったかも思い知らされました。身内のうち若者の半数近くが犠牲となった例もありました。
誰もが親切で、村でも私たちの調査に協力を申し出る人が現れました。彼らは解放後初めて日本人に会って、小学校以来初めて日本語を口にするのだといいます。初めのうちは全くたどたどしかった日本語が一日一日と蘇ってくるとは、本人たちも予期しなかったようです。もう必要もないし忘れたと思っていた日本語が自然によみがえるのを自分でも驚き、何か自信が湧いてくるようでした。日ごとに生き生きとし始め、私たちのため村のことも積極的に話してくれるようになりました。
この調査が終わった後、私は一人済州島に残ってあちこち歩き回ってみました。狭才に滞在していた折、帆船でしぶきを浴びながら飛揚島を訪れた時のことです。泊めてもらった家の主人が、千年も昔から伝わるという幸運をもたらす「金の碁盤」の話をしてくれました。それは高麗の昔、何某の元に所蔵されていたものが空中に飛び去り、次にそれは朝鮮王朝の何某の手元にあったのが再び空中に飛び去り、その後長らく消息は絶えていたのが、彼はこの碁盤が済州島の民家の踏み石になっていると、不思議な旅人から聞かされたというのです。実は私も、良く似た話を昔うっすらと何処かで読んだように思いますが、誰に聞いても分かりません。済州島は神話や伝説に満ちた魅力的な島なのです。