韓国研究の最大の理解者であり、人を動かす不思議な力を具えた泉先生の急逝は、日韓の交流にとって大きな損失でした。
泉先生が中心となって設立が推進されていた国立民族学博物館も、先生の急逝によって私には縁遠い存在となったように思いました。後になって、民博なら韓国研究の発展のためにもっとできることがあるはずだと思いましたが、その頃は先ず何よりも自分が韓国研究を切り開いてゆかなければという気持ちだけでした。
先生の遺志に応えて、学会も韓国研究に本格的に取り組むべきだ、これを機に大きなプロジェクトを立ち上げようという声が上がりました。多くの人が参加の意思を示し、私がその研究展望と計画の原案を書くことになりました。しかし先生無くして求心力が失せると、日が経つにつれそれを口にする人はなくなり、やがてそれは単なるお悔やみ代わりの慰みの言葉に過ぎなかったことが分かりました。学会内部にかぎらず、日本では韓国研究の重要性を口にしながら、実はまるで他人ごとのようで、自分は身を引いてしまうインテリが多かったように思います。研究ばかりでなく、日韓の交流においても同様で、いわばリップサーヴィスのようなつもりなのか、韓国側では真に受けて気を良くしたあげくに失望することが多かったのです。言葉と行動にずれがあって、その点でも日韓は「近い」ようで実は「遠い」のでした。日本のインテリにはそのへんの感覚が抜けているように思います。
韓国の現地研究に早く着手したいと考えていた私の希望に応えるように、その機会は意外な方面から来ました。大先輩の国際基督教大学の佐藤信行さんが、元々はアンデス農村の研究を専門としていたのが、韓国農村の調査を始めるということで、私が助手として同行することになりました。こうして1971年の7月下旬に初めてソウルに降り立ちました。韓国研究をライフワークと心に決めていたので、暗くなってソウルの明かりが見えた時の感動は忘れません。
ソウルでは張籌根、李杜鉉両先生の世話になり、調査地としては玄容駿先生を頼って済州島を選びました。すべて泉先生が東大に客員として招いた方々で、その点ですでに泉先生が敷いたレールの上をスタートしました。
ソウルは緊張感と活気が溢れ異国情緒に満ちていました。日本では政治や経済の厳しい状況ばかりが報じられていましたが、デモなどどこで行われているか分からないほど、人びとは自分の生活に追われ、それでいて表情は生き生きとしているのでした。
郊外の公園や松の木陰では、茣蓙を敷いて楽しく歌い踊る女性たちの「野遊」の一行を至るところで目にしました。話しかけると歓迎されマッコリも飲みました。ソウルでの宿は、秘苑前の路地中にある雲堂旅館という、これも泉先生お気に入りの韓式旅館でした。景福宮の近くは、かつて両班や内侍が多く住んでいた名残で、韓屋が多かったのですが、その中でもこの旅館は素晴らしいもので、居ながらにして韓国の歴史と文化を味わえる旅館でした。
小さな門をくぐって奥に入ると中庭もあり、人間文化財の御主人が内弟子にパンソリの稽古をつける声や、伽耶琴の音も聞こえてきたりしました。泉先生愛用の部屋はその一番奥にあって、窓の外からは物売りの触れ売る声も聞こえてきました。砧を打つ音を私はついに調査地の村で聞くことがありませんでした。その本物の音を耳にしたのはこの旅館が初めてで、それが最後でした。