韓藍異聞

2011年01月21日 泉靖一先生

1968年に大学院の修士課程に進むと、誰もやろうとしない韓国研究を志している私を、泉靖一先生は大変歓迎してくれました。そして、期せずして韓国から李杜鉉教授(ソウル大学)が客員教授として招かれ、韓国民俗学のほかに私は特別に韓国語の手ほどきを受けることができたのも幸いでした。その後、張籌根先生(京畿大学)と玄容駿先生(済州大学)も相次いで着任され、私は居ながらにして大変恵まれた環境の中、韓国の伝統文化について基礎的な訓練を受けることができた。実はそれも泉先生の配慮によるもので、まだ客員教授の制度が整っていなかった当時、先生は大学と文部省に掛け合って、ソウルからの客員教授の招聘を特別に認めてもらったと聞いています。

しかし間もなく大学紛争が文化人類学の研究室にも及んで、研究室はストライキと自主管理とかで封鎖され、大学院は完全に機能停止状態となりました。やむを得ず、私は韓国の先生方からの指導を受けながら、一方では以前からの漁民の研究を続けることにし、家船漁民の歴史的・生態学的な研究に自己流で取り組みました。
結局、修士課程では授業もほとんど開かれず、論文指導も受けないまま過ごし、ストが解除されるとストも無かったこととされ、授業料だけは納めることになりました。ならばと、用意していた家船に関する論文を提出するとすんなり受理されました。今でも修士課程の成績がどうなっていたのかよく分かりません。審査は確かに行なわれた記憶がありますが、どさくさにまぎれて博士課程に進学したようなものです。

その春休みに、私はかねて念願だった沖縄旅行に出かけ、知人を頼って1か月半ぐらい復帰前の沖縄を歩き回りました。その間、成城大学の野口武徳先生の紹介で、糸満漁民の金城亀一翁のもとに1週間通ってライフヒストリーを聴取したり、もらった餞別でフイルムを買って400枚以上の写真を撮りました。意外にもその写真が今では貴重なものとなっていると聞きます。4月に入って博士課程が始まるので、後ろ髪を引かれる想いで沖縄を去りました。大学に戻ると1か月も経たないうちに助手採用の話が出たため、結局博士課程にも3カ月在籍したにすぎません。

泉先生はいつもながらの多忙に加え、当時推進中だった国立民族学博物館の設立に向けて、文部省や財界の支援など詰めのため奔走していました。アンデス調査隊も軌道に乗って、後進の手に委ねる態勢が整いつつありました。京城帝国大学の学生当時に済州島の研究をして以来、韓国研究は手付かずのまま終戦を迎え、引き揚げて来られてからは日韓の国交にも阻まれてきたわけです。そろそろ新たな態勢のもと韓国研究を本格的に立ち上げようという構想を持っていたようです。私と1年後輩の嶋陸奥彦君(元東北大学教授、現ソウル大学教授)を自宅に招いて、ゆっくり将来の韓国研究の抱負を語ろうということになり、初めてお宅を訪ねました。しかし、ソウルに研究拠点を設置しようということまでは記憶していますが、奥さまやお嬢さんたちが加わると話は別の方向に流れてしまい、その機を逸してしまいました。

その秋には国際人類学会が日本で開かれ、更に心労が重なったようです。10月には55歳で突然逝去された報に接し、助手として最初の仕事が先生の葬儀となってしまいました。泉先生がもう少し長生きしていたら、日本の韓国研究はもっと華々しい発展を遂げていたにちがいありません。

プロフィール

写真:伊藤亜人(いとう・あびと)伊藤亜人(いとう・あびと)
1943年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科、同大学院社会学研究科修士を修了。70年より東大教養学部助手。その後、ハーバード大学客員研究員、東京大学助教授を経て、ロンドン大学SOAS上級研究員、ソウル大学招聘教授、東大大学院総合文化研究科教授。現在、早稲田大学アジア研究機構教授。71年から、韓国を中心に東アジア諸地域の調査研究に従事。済州島、全羅南道の珍島、慶尚北道の安東、ソウルにおいて親族組織、信仰と儀礼、契などの相互扶助組織、農村振興とセマウル運動、儒教と教育、歴史認識、都市移住、祝祭の創造と地域活性化などの研究を行う。医療人類学、都市人類学、開発人類学などの応用人類学ないし実践的な研究のほか、市民参加による「よさこい祭り」と地域活性化にも関与している。著書多数。
韓藍(からあい)とは
『韓藍異聞』の韓藍(からあい)は、朝鮮半島の古称。韓藍のほかにも韓紅(からくれない)という呼び名もありました。
リピートナビ
韓昌祐・哲文化財団ホームページへ戻る