民俗学に関心を抱く手掛かりとなったのは、たまたま家にあった『遠野物語』と森口多里の『民俗の四季』という本でした。私は理科系への進学を目指していたのですが、2年間の浪人時代に夏の間、宮城県の石巻と牡鹿半島の荻の浜で過ごしたのも大きなきっかけとなりました。民俗学の真似ごとのように、海のことや漁法について地元の人から話を聞いたりしました。
大学に入ってからも数学や物理学等には身が入らず、授業が終わってから毎日図書館で民俗学の本を読むのが楽しみでした。大林太良先生の民族学の授業にも惹かれ、中国の少数民族に関心を持ちました。
東大では2年の夏休み明けに進学振り分けが行なわれ、成績で進路が決まるのです。民俗学に一番近い専攻といえば文化人類学でした。理科から転向することに躊躇いはありませんでしたが、夏休み前に泉靖一先生の研究室を訪ねて人類学に進みたいという気持ちを直に訴えました。その日は研究室の大掃除だか配置換えだったようで、当然のように私も手伝うと昼ご飯もとってくれて、先生方や先輩たちにも紹介されました。何と大先輩の一人は、まだ進学もしていない私をニューギニアの調査に誘うのでした。9月初めに再び研究室を訪ねると、泉先生はちょうど外出するところで、「君の進学は問題なかった。私はこれから学会で仙台に行くのだが、君は行かないのかい」と尋ねられた記憶があります。
進学生を迎える研究室のコンパも印象深いものでした。主任の泉先生は、進学が内定したばかりの2年生から大学院生まで、学生全員と一人ずつ杯を交換するのでした。そんなことは初めてでしたが、後に韓国の農村でさんざん経験することになりました。その一方で、文化人類学研究室の先輩たちには、どちらかというと西洋風に洗練された雰囲気が漂い、日本の民俗学や東アジアについては関心が薄いという印象を受けました。それは官学の砦だった東大の体質によるものか、あるいは舶来の文化人類学によるものか分かりませんが、日本の民俗文化については皆驚くほど無知でした。
文化人類学という学問は、フィールドワークを通して異文化を研究するということが、新鮮に受け止められ、その当時ちょっとしたブームのようになっていたようです。中でも泉先生は、この学問が市民権を得る上で大変大きな役割を演じていました。研究室ばかりでなく当時の日本の人類学・民族学においても泉先生の存在は大きなもので、東大のアンデス調査が国際的にも高い評価を受けていたため研究室も活気に溢れていました。アンデスやニューギニアの調査に向かう後進のため、泉先生はフイルムなど研究資材の現物支援を仰いだり、貨客船に便乗させてもらうため、会社巡りまでしていたと聞きます。日本の人類学史に詳しいソウル大学の全京秀教授によれば、泉先生は京城帝国大学の学生時分から、組織力や世話役、支援や交渉などに並はずれの行動力を発揮し、人を動かす力を具えていたようです。
文化人類学コースの授業は、専門以外の隣接分野も講師陣が充実していて、言語学は服部四郎、考古学は国分直一、民俗学は坪井洋文、宗教学は掘一郎、そのほか土居健郎、徳永康元などをはじめ、多彩な授業が用意されていました。それはジェネラルな人類学を目指した文化人類学コースの理念に沿うものでしたが、その多くは泉先生の人脈に負うものだったと思います。