1970年ごろの日本では、韓国に対するイメージは今では考えられないほど暗く否定的なものでした。日本人は隣国の人びとの生活や想い、文化の伝統に対してさほど関心が無かったのかもしれません。韓国に対する関心は政治や経済に偏っていましたし、確かにその政治は軍事独裁政権による非民主的なものでした。しかし、それに輪をかけて日本のマスコミは否定的な面ばかり取り上げていました。当時はまだ韓国を訪れる人も限られ、一部のマスコミやインテリが情報を独占していた時代といってもよいかと思います。断片的で一面的な記事が平然とまかり通っていたのです。日本のマスコミの報道ぶりに対して、韓国政府ばかりでなく一般の人びとが抱いてきた不信感は長らく尾を引いてきました。
情報化時代とか情報産業などという表現が今もしきりに言われますが、「情報」という概念自体がそもそも「操作可能」なものを指していて、マスコミの場合はそれが商品にもなり、営利優先にもなりかねません。文化・社会については、自分たちが不得手なばかりでなく、専門の研究者に意見を求めることもめったにありませんでした。ごく稀に意見を求められても、よく考えて答えれば答えるほど、彼らの意図に適った内容でないと看做されると、取り上げてくれないのでした。それがマスコミの体質ともいうべきもので、その中にいると鈍感になるのでしょう。一部のインテリやマスコミが韓国に対する否定的なイメージを助長した責任は大きかったと思います。
しかし何と情けないことに、似たような状況は、本来もっともリベラルな知的世界であるはずの大学でも見られました。生活現実よりも観念を優先する点では同じような体質があるのでしょう。助手だったころ、韓国における優れた研究成果を日本に紹介するための翻訳シリーズを企画したことがあります。しかし、東京大学出版会のようなところでも「朝鮮なら良いが韓国では、評議員の教授たちの賛同が得られない」というようなことを平然と言うのでした。もう過去のこととはいえ、反省すべき点が多いと思います。
私が珍島の農村に住み込んで間もない1972年の10月に戒厳令が敷かれました。しかしまだ電気もない村の人たちは、農作業に追われてそれに気づかなかったようです。たまたま夕方に福岡の放送を聞いてそれを知った私が最初だったようですが、ほとんどの村人は無関心のように見えました。数日後、郡庁のジープが村に来て朴大統領の声明文を貼って行きましたが、それを読む人も無かったようです。
ソウルの中心部、仁寺洞の安国洞側入り口の野党本部の前には戦車が陣取っていました。砲身を下げて銃口をこちらに向けているようで、その前を横切る度に気分が悪かったのを思い出します。しかし、軍事政権の独裁的な政治に対して、過激にデモに参加する学生や一部の市民を除けば、ほとんどの韓国人は口をつぐんで、いずれ時間とともに解決される時が来るのを待っているようでした。村の人たちも、政治についてはほとんど口にしないのが常でした。私のような外国人に対して政治の話を持ちかけて探りを入れるのは、警察の情報課ぐらいに限られていました。しかし、そんな厳しい現実の中でも人びとの目は輝いていたし、懸命に自分の道を歩んでいる様子がよく伝わってきました。韓国では「待つこと」「耐えること」が重要なのだと思いつつも、この人たちに幸いあれと念じるよりほかありませんでした。