韓国の研究を始めてもう40年以上になりますが、以前は時折「なぜ韓国研究を志したのか、そのきっかけは何だったのか?」と聞かれることがありました。しかし、それほど画期的なきっかけがあったとは思えません。ごく自然にこの道に進んできたように思いますが、あらためて振り返ってみると、韓国・朝鮮とはいくつかの接点が有ったのも確かです。
中学の担任の先生が語ってくれた昔の京城の様子、そして先生があこがれた女性のこと、昔母の実家に下宿していた朝鮮出身の学生のこと、父が画学生の時分、船で中国の青島に向かう途中、済州島沖を通り過ぎた時に見知らぬ人から聞いた済州島の話などです。どれも些細なことですが、それが子供にとっては心を捉えるようで、知らぬ間に私のなかに何かが刻み込まれていたようです。
後になって気付いたのですが、両親をはじめアジアに対してリベラルな環境で育ったのは何よりも幸いでした。父のアトリエには、昔ミンダナオ島で肖像を描いたお礼としてモロ族の酋長からもらった編笠や蛮刀、壁にはモンゴルや雲崗の石仏の絵などが懸っていました。自分の名前も「アジアの人」でしたから、私にとってアジアはわが事のように思われたのも確かです。
しかし子供時分の私はといえば、根っからの工作少年でした。すでに小学校の時には、貰ってきたり拾ってきたりした部品でラジオを組み立てたり、中学生になると手作りの送信機でアマチュア無線に熱中したりしていました。家族も同級生も誰もが理科系に進むにちがいないと思っていました。その当時の無線仲間の一人宮原君はそのまま無線技術分野の権威となり、大阪大学の総長にまでなりました。しかし私は、そんな環境に育ったこともあって、こちこちの理科人間だったにも拘わらず、そのまま理系に進むことに秘かに疑いをもつようになっていました。
2年もの浪人生活の間、夏を東北の漁村で過ごしたりしている間には、すっかり民俗学に魅せられていました。大学に入学して初日の1限目の授業が泉靖一先生の人類学だったことも何かの縁だったようで、2年生の秋にはためらうことなく文化人類学に転向しました。漁村や漁師の生活の中でも、かつて船上生活を送っていた漁民に魅せられ、瀬戸内や九州の漁村を歩いたりしていましたが、やはりアジアを研究しなければいけない、誰もやろうとしない韓国研究を自分がやろうという思いがありました。
若かったので、志と体力・気力さえあれば何でもできるぐらいに思っていたようです。
1972年にソウルで私を見かけた田中明さんによれば、「まるで会津の侍を見るようだった」そうですから、誠にお恥ずかしいかぎりです。71年に済州島でテコ調べのような農村調査をして、72年から本格的に珍島の村に住み込んでフィールドワークにとりかかりました。性格はどうしようもないもので、次々に新たなテーマに気が散るばかりで、一向にまとまりがつかないまま今日に至っております。