韓国研究を通して出会った友人の中で、最も著名な一人が金容沃さんです。1977年の秋、ハーバード大学の構内で私たちは出会いました。何事も言うことが振るっている彼の表現を借りれば、会った瞬間からお互い「志通じる」間柄なのだそうです。専門は東洋哲学ですが、西洋の哲学にも日本の思想にも通じ、儒教ばかりか仏教、道教からキリスト教まで、それもテレビで自信満々に講義してしまうのでした。しかし、既成の韓国の学界に対してあれほど手厳しいとして名を売った彼も、どういうわけか人類学に対しては敬意を払ってくれました。おかげで大学の構内で彼に捕まると、寒い中でも平気で2時間ぐらい離してもらえないのでした。
その頃、ボストンマラソン前後に恒例となっていた鬼太鼓座(おんでこ座)の公演に彼を誘ったことがあります。私の期待どおり、和太鼓の響きに彼はそれまでにない衝撃を受けたようで、突然立ち上がってブラボーを発してあたりを驚かせました。その時の感動がきっかけとなって、彼は帰国後さっそく国楽の知人を動かしてはじまったのがサムルノリなのだといいます。どうも自画自賛がすぎるように思われてならないのですが、本当かもしれません。
その昔、保守的で知られた東大の中国哲学科の門を叩いた時、日本語もできない彼に対してまずは研究生となることを勧められたようです。しかし、教授たちには到底無理と思われた日本語を、彼はわずか3カ月でマスターしたそうで、この異彩の韓国学生に前例のない2年間で修士の学位を与えたといいます。彼は、下宿の部屋で立って歩きながら暗記したというその時のノートを見せてくれました。
帰国後、またたく間に彼は異彩ぶりを発揮し、ベストセラーを次々と出して一躍有名人となりました。いつもトゥルマギを着用して、ソンビか道士のように丸刈りした風貌と独特の語り口を、学界では変人のように見なして嫌う人が少なくなかったようです。年長の学者たちからは高慢と受け取られましたが、へつらうことなど微塵もありません。外見だけでなく彼の奇行ぶりには、私は何度も唖然とさせられた記憶があります。ある時、ホテルから電話すると、翌朝まだ7時なのに私の部屋の戸を叩く人がいます。彼は部屋に入って来るや、いきなり「最近、肛門のあたりにできものができて痛くて困る」というのです。そして何やら軟膏のようなものを取り出し、塗ってくれと言ってお尻を出すのでした。朝早くからこんなお尻を見せられ、これも彼ならではの親愛の情なのか「同門の宜み」なのか、いや「肛門の宜み」というべきなのか……。
まだ高麗大学の教授だった頃の彼の講義は名物授業として知られ、ソウル中から集まる学生で熱気に溢れていました。それを知らずにある土曜日の朝、突然電話してみると、今日の昼に高麗大学で会おうといいます。行ってみると、まんまと午後からの授業に飛び入り出演することになってしまいました。彼に案内されて講堂に入ると、通路にまでびっしり学生が座っていて、一斉に拍手で私を迎えてくれました。私は東大でもこんな熱い雰囲気の中で授業をしたことがありません。彼はすでに授業の中で私について話題にしたことがあったらしく、学生たちが明らかに私たちの友情を喜んでいるのは、彼らの表情からも伝わってきました。
彼の著書の中にも何の許可もなく私が登場していました。そのきっかけとなったのは、彼の家で少し酒を飲み、ほろ酔い気分で奉元寺の方に散歩した時のことです。その小さな峠に、今なおソナンダンが健在なことを彼は知りませんでした。昔から人々が旅の安全を祈って峠に石を積み、枝に布を結んだソナンダンが、まさか自分の膝元に残っているとは、それも外国人から教えられたのが大変ショックだったようです。ソナンダンといえば韓国人にとって心のふるさとともいうべきものなのです。人類学は、文献と論理に頼る哲学者と明らかに違う空間に住みながらも課題を共有しているようです。
彼はテレビ講演にレギュラーで登場し、彼の授業時間には故金大中大統領も会議を切り上げてテレビに見入っていたといいます。ともかく彼の講義は迫力がこもっていて、聖霊主義派の牧師どころではありません。私は、彼の知性と情熱を一度でもよいから日本の学生に伝えたいと、東京大学に客員教授として迎えようと提案したことがあります。残念ながら、遂にそれは果たせませんでした。